食というもの
食というものは人類の発展と共に育ってきたもので、生きるという骨幹の命題に直結した歴史と文化だと思っています。
芸術、文学などと同様に粋を極めた究極の食文化が各国にあり、日本にも平安の頃から優れた料理人が存在するようになったようで、戦国時代の千利休はお茶の先生と理解している人が多いようですが、彼は時の闘うことしか知らない武人たちに茶の湯だけでなく、能や書道、食などの文化を教育し、統治する人間としてふさわしい教養を身につけさせた偉人です。
明治、大正、昭和の時代を生き抜いた超文化人の北王子魯山人と同じです。
一方で普通に生きるだけなら芸術も食も特別なものは不要で空腹を満たせれば良いわけでそこに食に関心があるかないかの大きな差が生じることも事実です。
ただ、様々な人と触れ合う中で話のネタ、いろいろな知識はあった方が世の中を生きていく上で便利だったり、より高みを目指そうとすると必要な教養として身につけていたいものです。
絵画でも音楽でも飲食でもそれが良いものかどうかを判断するには経験値が必要です。美術館で絵画を見たり、音楽コンサートで自分の耳で聴く、食も同様に様々なものの味を試してナンボであって、「この味は〇〇に似ている」とか「〇〇のレストランでこういうものを食べた」というような経験があって初めて評価ということが可能になると思っています。
絶対音感、絶対味覚みたいなものが先天的に備わっているということはまずないと思います。
そして、残念ながらそういった経験値を積むにはコストが掛かることも事実です。
裕福な家庭に育った人が芸術や食といった文化を極め易い環境にあるとは思います。
ただ興味を持つ、関心を持つということによって自分が使えるコストをそういう方向に消費することは経験値を積むことのきっかけになると思います。
教養はないよりあった方が絶対にいい。そういう着意を持つかどうかは大きな差だと思います。
日田に移住して3年余りが過ぎました。
この町の食に関しては少し特異なところだなということを感じています。
歴史のある町なので和食に関しては店舗数も多いのですが、いわゆるおしゃれな店、デートに連れて行きたくなるようなジャンルの店が6万人の人口の町にしては非常に少ないように感じます。
隣の福岡県うきは市(特に吉井町)などにはワインバーであるとかジャズバーとかそういう店があって活気もあるのでよくJRを利用して楽しんでいましたが、コロナが明けて大分県の地方の町である臼杵、竹田、佐伯などに泊りがけで行ってみると吉井町と同様にあるいはそれ以上に店のバリエーションが多く、洒落たカフェ、ワインバー、スペインバル、フレンチレストランなどが活気付いていて無論和食も高級料亭や質の良い割烹が数多く存在しています。臼杵は日田の半分の人口で、竹田は3分の1しかいませんが、平日でも夜の飲食には大変な活気があります。
平均世帯所得も竹田を除けば日田より少ない状況なので所得による差異でもないですし、同様に過疎の問題、高齢化の問題も抱えていてそういう意味の差もないようです。
日田はこの5年で全国チェーンの大手外食産業の店が次々と撤退して行きました。
高級な食文化ということでもなく、飲食を楽しむという文化が他の町とは少し違うようです。
自分が他の町に行くのは休業日である月曜なのですが、月曜の18時に満員御礼の店が何軒もある状況です。
常連のお客様で「本当は友人を誘ってランチやディナーに来たいのだけど日田の人は飲食に行かないのよ」といったことを話される方もいますし、また、日田にも由緒ある店はあって、そうしたお店の店主の方などから「日田の人がなかなか店に来てくれなくて、、、」という声や「日田でフレンチはやめた方がいい。商売にならない」というようなことをこれまで漠然と聞いていましたが、店を開業して3年。「そういうことなのか、、、」と今更ながらにその言葉を思い出しています。
何故なのでしょう?なかなか飲食店には厳しい町のようです。
オランダやイギリスははっきり言って食文化が育っていません。それは宗教が関係していてキリスト教でもプロテスタントの人々は飲食にお金を使う、飲食を楽しむといったことに背徳感を持っているようで休日に家族でレストランに行くという文化が育っていない、従って飲食店も育たないという循環があるようです。
それは原因がはっきりしていますが、宗教の問題は国内ではないですし、謎です。
美味しいものは他の町に行って食べるという割り切りがあるのかもしれませんが、交通手段とか考えるとそれも難しいような、、、